目頭が熱くなる映画

インド映画ってめっちゃおもしろくないですか?

突然踊り出すシーンがおもしろすぎますよね‹‹\(´ω` )/››‹‹\(  ´)/›› ‹‹\( ´ω`)/››~♪

って、そこではなくて、普通に内容がおもしろすぎます(ダンスシーンもみてて超楽しいけど)

はじめて見たインド映画は「きっとうまくいく」

日本でもかなり有名な映画で、この映画には確実にメッセージが込められています。

そのメッセージを伝える手段として「映画」というものがつくられているんだなとハッキリ感じるくらいに思いがこもっています

そこに心打たれる人は多くいて、かく言う僕もまんまと心打たれました。

映画「きっとうまくいく」に関してはまたいつの日かブログにしたいと思いますが、昨日はそんなインド映画の他の作品をみたのでその感想を綴りたいです。

その映画とは…「PK」…

この映画はきっとうまくの主演であるアーミル・カーンがまたしても主演を務めていて、レンタルビデオ屋でそのパッケージに写っているアーミル・カーンを見た瞬間「これだァ!」と思い、即レンタル。

そして昨日それを3時間かけてまるで時を忘れたかのように観ていました。

話は少し逸れますが、2週間ほど前に東京までヒッチハイクに行きました。

これはこれでブログにかく甲斐のあるヒッチハイク旅だったのですが、そのヒッチハイクの旅では終始「宗教」についてとても考えさせられる旅となりました。

なぜなら、その旅の途中、ヒッチハイクをしていた僕達一行はとある宗教団体に勧誘を受けたのです。

ここまではよくある(?)話なのですし、普通その勧誘はお断りしますが、その時は「30分ほどこの宗教について聞いて頂けたら高速道路まで乗っけていきます」という勧誘を受けました、、、

まぁ、僕は怖かったので断ろうとしましたがヒッチハイクを一緒にしていた子が「いきますよ」って言ったのですよ、、

と、まあその後の話はまたいつかの記事で公開しようと思います。(ほんとに怖かった)

そしてこの「PK」というら映画はまさに宗教がテーマとなっている映画でした。

この2週間ずっと考え込んでいた僕の中の疑問の答えがこの映画からみつかったのです。(本当にそれが答えなのかははたして…とりあえずの答えですね)

その疑問とは「宗教で洗脳されきって完全に幸せなまま他界した人にとっては例え宗教団体に多くのお金を貢いだとしても当人にとっては幸せを与えられた対価として払ったお金なので正当なのか?」というものです。

ビジネスの本質的なところは「相手にメリットを与える。その対価(感謝状の代わりとして)共通認識として価値のあるお金を払う」という部分なのかなと思います。

宗教団体がその個人に(人工的ではあるが)なにかしらの幸せを与えたのであればそれは当人にとっては「幸福感」というメリットがあるのでビジネスの本質から逸れないのではないのか…?と思っていました。

しかし、やはり違和感がとれない考え方だったのでこの2週間ずっと考えていました。

みなさんならどう考えますか?

この「PK」という映画…

この映画は「宗教は個人の悩みを根本的に解決しているのか?」というテーマで進行していきます。(僕の解釈が入っていますが)

確かに宗教団体はある種個人に対して「幸福」というものを提供し、勇気を与えているのかもしれない。ここまでが私の思考レベルの限界でしたが、この映画を見たあとはその幸福が「根本的に」解決に繋がるものなのか?という考えに至りました。

すなわち「気休め程度」「首の皮一枚つながった」状態でしかないのではと

もし、この世に宗教が無かったらどうでしょう

例えば就職先で上手くいかずに途方に暮れる人。 例えば最愛の人が亡くなり行き場のない気持ちを抱えた人。 そんな人たちはどこから希望を見つけるのでしょうか。 それにはいろいろな手段があると思います。その数ある手段の中には「宗教」というものが大きくコミットしていると思います。 なので、そのような自分ひとりでは希望を見いだせない人に対して「一時の勇気」を与えるところは宗教の役割であると思います。 風邪を引いた人に対してその苦しみを緩和する薬剤を処方するのと非常に似ています。 なので宗教自体は人類にとって社会にとって必要な存在といえます。 では、宗教団体に大量のお金を貢いで幸せを手に入れることは正義なのか? 私はそうではないと考えています。(正義の定義は社会全体にとってのメリットになっていることとします) 世の中の宗教団体には個人に一時の勇気を与えるだけではなく「信仰を続けないとその勇気や希望が消え去る」かのように働きかける団体が多くあります。 つまりその個人に宗教の信仰を「依存」させているのです。 先ほどの薬剤を処方するという例に倣うとこれは「麻薬」に当たります。 すなわち信仰により勇気を手に入れた後は、その信仰がさらなる信仰を煽り、最後には信仰無くしては生きていけない状況までに至ります。 まとめると、、 宗教団体にも2つあります 一つは「個人の精神的自立を目標とした宗教」 もう一つは「個人に精神的依存を強制することを目的とした宗教」 確かに麻薬が合法とされている国もあるので、後者の宗教がどこでも普遍的に悪とされる訳では無いと思います。 しかし、やはり個人から自律を奪い、信仰なくしては生きていけないかのように強制するというのは僕にとっては悪のように感じます。 なぜなら「宗教に依存する」→「自分の意思を自分でコントロールできない」→「犯罪に走る」という可能性を孕んでいるからです。 確かに最後の「犯罪に走る」というのはかなり極端な状況だと思います。 しかし、現に宗教の信仰心が動機となる犯罪は存在しています。 犯罪=社会全体にとってのメリットになっていない(デメリットになっている) なので「悪」だと思います。 やはり一時的な希望を与えるという意味では宗教はすばらしいものなのですが、所詮それは「気休め」にしかならないということですね。 それをこの映画「PK」から学ばさせて頂きました。 宗教に関する解釈は数多くあると思いますし、正義の定義すらもあやふやなこの世の中で確実な答えが出るわけでもないと思います。 なのでこのいまブログに書いたこともいずれは違う考え方も発見する可能性はあると思うので一時のものだと思います。(逃げに走ってますが笑) なのであくまでもこのブログは僕の考え方です。 なるべく客観的に考えたつもりですが、それでも偏った考え方をしている可能性はあるので本当はブログにすべきではないのかもしれないと、今書きながら感じてます。 でもせっかくこんなに書いたので投稿します笑 あと今、僕自身は宗教には入っていません笑 またインド映画みよ~と